オーケストラの、トラのお話

音大生の代表的なバイトの一つに、「トラ」というものがある。

トラと言っても、もちろん一休さんが屏風から追い出さなければならなかったあのトラではない。

エキストラの略のトラである。

エキストラと聞くと、ドラマ撮影などで通行人の役を演じる人を思い浮かべるかもしれない。
でも、音楽の世界で言う「トラ」は、オーケストラに団員の欠如が出た場合などに、その穴埋めを行うピンチヒッターのような役割を言う。

トラの仕事はプロオケにもアマオケにも存在しているが、将来オーケストラで演奏したいと考えている音大生には、特にプロオケのトラの仕事が魅力である。

プロの現場を経験でき、おまけにお小遣いも手に入れられるからだ。

今日は、このオケトラに関しての話をしていこうと思う。

クオリティを約束し続ける仕事、それがトラ!

通常各オケには、団員や事務局員の中に「トラ係」なるものがいる。
この人たちが団員の欠如分を補うため「トラリスト」に登録されている「トラ」たちに電話をかける役割を担っているのだ。

ここだけの話、「トラリスト」に登録されている「トラ」たちには優先順位がある。
演奏技術の優れた人、アンサンブル能力の高い人、そして団員たちと友好な関係を築くことができる「トラ」たちが真っ先にに電話されるのだ。

でも、そういうトラたちはどのオケのトラリストにも登録されており、引っ張りだこになっている。そのため、電話したときにはすでに予定が埋まっており、ゲットすることができないこともしばしばだ。

お目当てのトラの予定が空いていなければ、次のトラに当たる、という感じで欠員はコンサートごとに補われていくのだ。

わたしはフリーランス時代、とあるオケ団員さんの手から滑り落ちたトラリストを偶然拾ってしまい、その瞬間固まったことがある。

リストにいくつかドクロマークがついていたのが見えてしまったのだ。

見てはいけないものだと知りつつも、そのリストを返しながら

「今一瞬ドクロマークっぽいものが見えたんですけど。。。」

と口ごもりつつ聞いてみると

「あ、これはね。。そのう、他にトラがどうしても見つからないときの最終手段として声をかけるエキストラさんの印なんだ」

団員さんも、気まずそうに口ごもりながら教えてくれたではないか。

「どういうときにドクロマークがついちゃうんですか?」

自分の名前の横にドクロマークがついていないことを切に願いつつ、思い切って尋ねると

「うーん。例えばさ、楽譜に全音符が書いているときにね、ただ全音符を弾いてるような人。」

もう何十年も前に聞いた言葉なのに、この例えは今でもわたしの心に鮮明に残り続けている。

トラはいつもチェックされている。

毎回毎回が、生き残り戦だ。

終身雇用が約束された団員よりも、ずっとずっと神経をすり減らし、高いクオリティを保ち続けなければならない。
今日はたまたま調子が悪くて弾けなかった、というのが許されない。
そんなことがあれば、次はないからだ。

プロオケに就職した後でも、わたしは時々自分を顧みることがある。
今、わたしがこの状態でトラに来ているとしたら、ドクロマークがついていないだろうかと。

トラと団員の格差

何度もトラとしてリピートされたトラたちは、そのオケの「常トラ」の地位を得る。
常トラとなったオケでは、割とリラックスして仕事をすることができるが、一番最初に行くオーケストラというのは本当に緊張する。

どんな人たちが弾いているか、どんな演奏スタイルが好まれるかがわからないからだ。

初回の仕事ではそのオケにとって有益なトラになれるように、団員たちがどのような演奏をしているのか、どんな方向性のオケなのか、アンテナを張り巡らして演奏をしなければならない。

アンテナの張る作業は舞台に上がる前から始まっている。

例えば、どこで楽器ケースを開けるかなんてことにすら、気を遣わなければいけないことがある。

リハーサルのとき、楽器ケースを開けるのはホールの楽屋、もしくは舞台裏だ。

オーケストラの規模に合わせて、たいていは男女それぞれ2,3部屋の楽屋があるのだが、どの楽屋を使うべきか、トラたちはまず観察する。

楽屋は不思議なことに、若い団員やエキストラたちが使う部屋とベテランたちが使う部屋に分かれてくる。

始めて行くエキストラが使う楽屋は、もちろん前者だ。

そこでも、トラたちは、一番便利な机や椅子の上に堂々と楽器ケースを置いてしまうようなことはしない。

団員や常トラが使わなそうな端っこ、ひどいときには隅っこの床の上で楽器ケースを開けたりする。

都市伝説だと心から信じたいが、こんな話がある。

とあるオケで、何も知らない若いトラがベテラン団員のお気に入りの場所にうっかり自分の楽器ケースを置いてしまった。

リハーサルが終わった後、楽器を片付けようとしたら自分のケースがない。

探してみると、なんとケースがゴミ箱の中に・・・!

という世にも恐ろしいホラーストーリーだ。

こんな信じられないホラーはただの物語であってほしいと祈るばかりだが、こうならないためにも、日本の新米トラたちは本当に気を遣う。

実際自分がトラとして仕事をしていたときは、団員とトラの身分の差というものを感じることがよくあった。

演奏能力の優劣に関係なく、トラのほうがどうしても弱い身分になってしまうのだ。
それは、いつでも関係を切ることができるオケ側と、いつでも関係を切られてしまう危険があるトラ側の強弱からくる格差なのだろう。

一般企業の社員と派遣社員にも、近いものがあるのかもしれない。

とはいえ、すべてのオケにおいて団員とトラの格差があるわけではない。

実際クオリティの高いトラが来てくれれば、全体的な演奏能力も上がるわけなので、トラをすごく尊重して大切に扱うオケもある。

トラとして立場の差に腹を立てずに働くためには、どこからでも欲しいと思われる能力を身に着け、自分でそのようなオケを優先して選んで働くことができるようになることだけなのかもしれない。

簡単なお仕事ではないけれど

トラの仕事を得るためには、演奏技術だけではなく人と人とのつながりを作る能力も必要だ。

トラとして仕事をしている人たちの中からは

「あの人、わたしより弾けないのに、やたらトラの仕事たくさんもらえてる!なんでなの~?」

なんて声が聞こえてくることも少なくない。

そう。正直、そういうことはある。

羨ましがられる彼らには、最低限の演奏能力に̟プラスアルファして、ある能力を持っていることが多い。

「この人と一緒に仕事をするしたいな」

と思わせる能力である。

そんなん、音楽に何も関係ないだろ、ふざけんな(笑)

と思われるかもしれないが、現実的にこの能力はトラ含めフリーランスとして生きていく上ではかなり重要ポイントになる。

いわゆるコミュ能力というやつなんだろう。

ここまで様々な能力が問われておいても、報酬は世にある他のアルバイトと大差はない。

報酬額は、たいていリハーサル時間の時間給+コンサートの回数で決められており、一見するとまあまあもらえているような印象を受ける。

しかし、この金額にはもちろん自宅で曲を勉強したりする時間は含まれていないのだ。

今月はたくさん発注があっても、来月はまったくない、などオケの都合に振り回される仕事でもあるし、今需要があっても将来はわからない。

トラの仕事だけで生きていこうとするのはなかなか危険な橋だ。

トラ。

それは「他の団体で演奏するだけの、簡単なお仕事」ではないのだ。

進めトラたち

そんな風に苦労や緊張はあるが、基本的にわたしはトラとして働くことが好きである。
プロオケに所属するようになったあとでも、運よくトラとしてほかのオケにお邪魔させていただけるときはいつでも特別な気持ちになる。

そこには人と人の新しい出会いがあり、自分の知らない世界がある。

自らトラとして働くと、新しい世界に足を踏み入れることを恐れず、好奇心と向上心を持って自分のオケに来てくれるトラの人たちを尊敬する気持ちも大きくなる。

みなさんが鑑賞するオーケストラのコンサートに、トラが出演していないものはほとんどないと言って過言ではないだろう。

それくらい、オケの中にはたくさんのトラの人生があふれている。

パートの後ろのほうでのびのびと援護射撃をしてくれている若い奏者は、トラである可能性が高い。

彼らの中には、将来世界へ羽ばたく金の卵もいるだろう。

いつも演奏会では「コンサートマスターしかみてないよ~」という人も、次回は知られざるトラの生態と人生に思いをはせて舞台を見渡してみてほしい。

いつもと違った視点で、演奏会を楽しむことができるかもしれない。

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